浜岡原子力発電所の停止が決定した。これはスタートにすぎない、と思った。あたしたちが大きく生き方を変えていく、ほんの一歩目にすぎない。もう、今変わらないと間に合わない、と。
奪いすぎてきた。自覚もなしに。
高円寺に行われた反原発パレードに参加した。そこには2万人近いひとびとが集まって大きく大きく声をあげていた。あたしも含めてデモなど初めて、という、ふつうの顔をしたひとびと。世界が変わると思った。希望がふくらんだ。でも次の日、テレビにも新聞にもそのニュースはなかった。まるで何事もなかったように。そんなふうに簡単にいくわけないんだ。ニュースでは原発をなくすと電気が足りない、という話が繰り返し伝えられるだけ。東京電力管轄の原発を点検のために全て止めた夏にも停電などなかった、という事実があると聞いた。でも、そんなことを語るひとはテレビには出てこない。
今までうすうす感じていたけれど、やっぱり、と思った。今まで自分たちの国の向かう先を人任せにしていた結果がこれ。あたしたちひとりひとりが持つこの違和感、焦り、何かが違う、と思うきもちを見える形で表現していかないともう、ぜったい間に合わないと思った。
マーティン・ルーサー・キング・Jr.は言った。「最大の悲劇は、悪人の暴力ではなく、善人の沈黙である。沈黙は、暴力の陰に隠れた同罪者である」過去の偉人があたしの眉間ににこの言葉を突きつけてきたように感じた。善人のつもりでいたあたしにも、沈黙はもはやゆるされないと思った。自分で自分をゆるせないと思った。サイとサイのともだちたちに胸を張れる未来のために。多くのひとびとの尊い命が犠牲になり、あたりまえの暮らしを奪い、美しい国土の一部が大きく損なわれ、そして、まだそれは悪化を続ける可能性を残す。そんな状態になるまで学べなかった自分をほんとうに悔しく情けなく思う。輝く未来をこどもにあたりまえのように手渡したい。いったい、どうすればいいんだろう。
反対と叫ぶ前に代わりの方法を考えろというひとがいる。もちろん、考えるべき。必死に。でも専門家でないあたしたちが知恵をしぼるためには、まず、違和感と危機感を大声で伝えることが必要だと思う。そこから始めて、小さな声が重なり大きな揺れとなって、巨大な「国」を動かしていけるんじゃないかと信じる。信じたい。だって、国って、そんな小さな無力なひとりずつのにんげんの集まりでしょう。
震災から2ヶ月が過ぎようとしている。いまだつらい日々を送る被災地のひとの様子に胸がどうしようもなく詰まる。毎日風向きを気にして、見えない、匂わない、放射能にどこかおびえる日々。それはどう考えてもまちがってる。あたしたちはただ、あたりまえにただ息をして、太陽と笑って、地球の上をだいじなひとたちと思いっきり走り回りたいだけ。そんなあたりまえに生きる喜びの権利すら奪う、そんなシステムはもう、いらない。手放さないと。
ひ弱な都会っ子のあたしが、たとえば、突然かまどで米を炊く生活に戻るには相当な覚悟がいる。でも、そんな唐突な変化ではなくとも、できることはまず山ほどある。今まであとまわしにしてきたこと。
限りあるものを奪い合うのはもう、たくさん。自分の「豊かさ」の代償をほかのひとに押し付けるのも、もう、たくさん。遅すぎるかもしれない。でもきづいてしまったから、もう、戻れない。進むしかない。分け合える、次の世界へ。
お義母さんが13年前に裏の神社に植えたというナンジャモンジャの苗が育ったのをサイを連れて見にいった。かつて30cmの苗を植えたそこには、立派な花をつけた大きな樹。美しい雪のような無数の花。しゃんしゃんと揺れる。ただ、揺れる。美しかった。白く、豊かで。