いろいろチャージドな日々。
ミク邸でサシで撮影。あたしたち二人は波動が同じなのか似た種類なのか、彼女と会うといつも持てるものをぜんぶ、頼まれてなくても気づくと、すっかり出し尽くしてその同じ分もらっている。交換会。あたしたちが男女でつきあっていたとしたらきっと濃すぎて大変なカップルになることだろう。あまりに、濃密すぎる。ふだん使っていない部分がものすごく撹拌される。当然のように、よい写真が撮れた。サンクス&ラブ。そしてマサマユ邸で4才目前のさおんの完璧なほっぺたと丸刈りのテクスチャーにぞっこん。天才マサのすばらしいマッサージでiPhone病をマシにしてもらいマユちゃんの料理で弛緩。ありがとう。翌朝はMパターンさんの撮影で小学生になったサキちゃんにきゅんきゅんきて、そのあと大急ぎで移動。大人気で大忙しであろういいオトコな俳優さんのたたずまいに尊敬をおぼえながら撮影したあと、ともさかりえさんが出演されている舞台を観せていただく。
舞台は生な震えがこちらにさらさらと流れ出てきて、最後のほうにはストーリーと関係なくいつのまにかなんだかあたしは泣いている。ということになってしまう。それはあたしにとっては、いつか沖縄で小学生たちが透き通った声で合唱してくれたときにもうなんだかわけがわからず泣いてしまったことと本質的には同じ。ストーリーや歌詞は意味を超えて媒体となり、あたしが受け取っているものはそこにいるひとびとの放つ純粋なエネルギーなんじゃないかな。そうなるともう、たまらない。しかしよくあることですが、そんなにたらたらと泣いてるひとはあんまりいない。じんわりとくる、ステキな物語なので。完全なるマイノリティ。となりのひとはなんで一体あなたここでそんなに?? というムードでちらちらとこちらをご覧になっていました。ムリもないです。あたしも逆だったら不思議にまたは不審に思うだろう。もうしわけない! ああ、でも、観れてほんとうによかった。
もしやと思って舞台帰り、こわいものみたさでセンター街をヘッドフォンなしの丸腰で通ってみる。あ、鬼の形相のひとびとが強化ガラスの遠くに思える。あたしは透明な膜に包まれている。まっすぐたのしく帰った。やっぱり。チャージが満タンだと、たいていのことは、大丈夫なのだ。
今日は3月から通わせていただいている絵のワークショップではじめてパステルを使う。しばらくぶりなので線が全然整わない。というか、これはむしろ線の話じゃないのだ。目と心がもとの大雑把に戻っている。あああああ。ここでいつも学ぶのは、絵の技法ではなくて、しんとした心を持つ、という状態。写経でも座禅でも同じことなのかもしれない。このタイミングで出会ったのが絵とこの先生だったということ。1時間もするとやっと真空状態になって、頭の中の話し声が聞こえなくなって、スケッチブックの目の細かさのレベルまで視界が拡大される。指の先のことだけを、ただ、考えている。いかに何百倍にも薄められたとりとめのない意識で日々すごしてしまっているか。そんなことをつくづく気づかされてしまう。何かを効率よくこなすことではげしく失っていることがあるのだ。うしないたくない。僕はすでに多くのものをうしなってきた。と春樹さんが何度も書くように。あたしも、そうだから。まだつかまえていたい。今日は5年生のななちゃんとまどかちゃんと楽しく描きました。ふたりはあたしより抜群にうまいのに、線がよろよろしているかわいそうなあたしをはげまそうと、すごーいキレイないろーってシアン色の声で言ってくれた。はげましのトーンでやさしく。5年生。弱きものにやさしくする術はもう知っている。ありがとう。
帰り道、志の高いステキなお魚やさんを発見。おいしいあさりとたこを買う。この道50年の誇りがぎんぎんににじみ出るその目つきと声の強さ。またいい光を見た。エビもおまけにいただく。絵を教わったあとは料理も心なしか拡大された目のままで作れる気がする。どうかこの目で見る世界を、できるだけ長く保てますように。あじさいのカラーリングに惚れ直す6月。何かを思い出しそうな、気がする。明日はハナレグミ。