たくさんのひとに会って、たくさんのものを見ている日々なのだ。
●直子ちゃんに誘われてVOGUE FASHION NIGHT OUTのイベントのひとつ、US VOGUEの編集長、アナ・ウィンターのドキュメンタリー映画の試写会に。マミエちゃんも一緒に。プライベートなムードの試写で、きりっとした空気のステキなひとばかり。ずっとファッションの世界で生きてきた二人みたいにあたしはファッションにコミットした生活じゃぜんぜんないけど、アナの決断力には強くインスパイアされる。たまたまアナたちにはファッションが生きる道だったんだろうな、と思う。直子ちゃんもマミエちゃんも、生きるということにほんとうに真摯でかしこくてしかもものすごくかわいくて当然スタイリッシュで、あたしの「ファッションピープル」への無知がゆえの偏見をあっさりとくつがえしてくれたステキすぎるともだちたち。マミエちゃんのおいしい手料理を山ほどごちそうになりいろいろ話しながらごろごろする。あたしの敬愛する桐島洋子さんの『聡明な女は料理がうまい』を地でいくマミエちゃん。必読だと思い、強烈に強引に勧めて、帰る。ありがとう!ごちそうさま!
●次の日は吾妻橋ダンスクロッシングをはーぴーと観にいく。いとうせいこうさんと康本雅子さんを観るのがメインの目的。不意うちなくらいにcontact Gonzoにとても鮮烈な印象を。うわさには聞いていた「おごそかに殴り合う」という彼らのパフォーマンスは、単に暴力の表現ではなく、もっとちがう、ひととひととの深い関わり、への欲求に見えた。不器用で言語化ができなくて、でも、関わりたくて、殴っても殴っても足りなくてまだお互いに向かっていく。愛されたくて愛したくて、でもやり方がわからないひとたちの悲しみのようだった。せつなくなった。理由がなんであれ、暴力と怒りが苦手なあたしはcontact Gonzoはきっとずっと観ることはないだろうと思っていたけれど。うっかり観てしまった今、ものすごく、心に残ってしまったのだ。彼らのその、ヴァーチャルにモニターを通した言語で誰かと向かい合っているつもりのひとびとと、まるで、逆の生の関わりを見て。
●せいこうさんと康本さんのパフォーマンスは奇をてらうことなどなく驚くほどのストレートさで今伝えたいことを身体を使って響かせていた。一秒も目が離せなかった。まっすぐにただまっすぐに、自分が正しいことを表現することの、なんと勇気のいることだろう。そこには小細工などなくて、ただ、ほんものの、感情と身体の動きだけがあった。
かっこよかった。(すばらしすぎて脱力)
●はーぴーと感想など話しながら韓国の食べ物を食べる。何かを観たり聴いたりする体験自体はひとりのものだけれど、それを同じようなレベル(種類はちがっても)で共有できることはほんとうにステキなことだと思う。ありがとう、はーぴー!
●『暮らしのおへそ』のパーティーに呼んでいただきトシオと参加する。おへその最新刊にでた方々などが集まり、一田憲子さん宅でおいしい手料理をいただく。(手料理をいただいてばっかりだ!!)一田さんと編集の雨宮さんの高感度なレーダーにより集まったひとびとはみんなステキな人ばかりで、楽しい時間があっというまに過ぎる。偶然のつながりもいくつか。ひとつのことを誇りを持ってやっているひとというのは、みんな一様に同じようなにおいがする。体の奥は熱いけれど、心が凪いでいる、というかんじの。ステキな夜でした。一田さん、雨宮さん、ありがとうございました!お会いできたみなさまも!
長々と書いてしまったけれど、そんなこんながありつつ、他にもたくさんのひとびとと会って話したり、撮影をしたり、映画を観たり、本を5冊平行して(養老さんと三好さんとフロムさんと春樹さんと春樹さん)読んだり、と、目や耳や皮膚が忙しい日々。忙しいことがよくない時期もあるけれど、そうすることが今はよいかんじがする。ちかごろ、この「かんじ」が外れることがほぼ、ないので、従うようにしているのだ。
こうやって自分じゃないひとと交差したり、映画や本や音楽を通じて誰かの考えに寄り添うときに、浮かぶきもちはいくつかの種類に分けられるように思う。それはものすごく大雑把に言えば『共感』と『違和感』。細分化するともちろん、いろんな形の共感があり、いろんなレベルの違和感がある。それはここ最近、今まで以上に強くなりつつある。強い共感と強い違和感。そういう共感や違和感を通じてあたしが何を見ているのか、ずーーーっと考えていたのだけれど、答えはとても簡単なことだった。それは
あたしはすべてのひと/ものを通して自分自身を見ている。
ということ。
あーーーーびっくりした。
とってもとってもあたりまえのことのようだけれど、改めて実感するととても視界が晴れるようなきもち。そうか、あたしはあたしを見ていたのか。ポートレートを撮るときに目の前のひとに自分が鏡のように写っていることをよく感じるけれど、風景を見ても、パフォーマンスを見ても、そこにもそこにもそこにも自分自身がいつも映っている。それはおそろしいことでもあるけれど、ゆかいなことでも。あたしはshing02を見ているようで実は自分自身を見ている。あたしは康本雅子を見ているようで実は自分自身を見ている。あたしは。
宇宙や世界とつながりたいということは、結局自分自身とつながりたい、ということになるのかもしれない。自分自身とつながることは地球だとか宇宙と一緒になりたいことと同じことなのかもしれない。どちらが先かわからないけど、そういうことなんだなぁと思った。そしてその実感には精神だけではなく、身体性がものすごく大きな意味を持つ。手で触れて耳で聴いて目で見て。そういうことなしにつながっている錯覚ほどあたしが違和感を強く覚えることはない。ぜんぶ、触れたい。
秋だなぁ。夏を深く愛してるけれど、秋もスキ。