今年1年の撮影がぜんぶ終わりました。わーーーい。ヒサトとはるちゃんと。
ものすごく怒濤なかんじの2007年終盤。あまりの怒濤さに前半のことをすっかり忘れてしまうほど。夏に撮った子に再会。1年半ぶりだね、って言って笑われました。あれはたった半年前だった。ほんとかな。世界単位でだまされてる気がする。信じられないわ。
ちかごろずっと自分にできることとは、とか自分とは、って考え続けていました。
ほんとうに写真を撮るということは自分の中にあるものが確実に写る。対象がひとであっても草花であっても。でも、そこまで自分をセキララに露呈しなくても技術としては「いい写真」は撮れてしまう。その写真を、喜ばれることすらある。でも誰が何と言ってくれても自分のことはだませないから、そんな写真を撮ってしまったことにとてもかなしいきもちになる。
そんなことが何度か。
ものすごい本気で人と、景色と、対峙すると終わった時はイタコの人がセッションを終えたあとみたいにぐったりする。そして対峙しているのはいつのまにか目の前にいる誰か、何かではなく自分になっている。自分とは何者なのか、生きていくこととはどういうことなのか、たった1枚のシンプルな写真を撮るだけのためにさんざん考え続ける。
そして自分の中に存在するはずのブラックボックスを点検する。考えて撮る写真ではなく、自分でも驚くようなものが撮れるときは必ずこの、ブラックボックス経由。そこに入ればいつも何かミラクルがでてくることは結果として知っているけれど、ブラックボックスだから中は見られないし、仕組みはわからない。でも、その入り口には確実に立てるように自分のコンディションを持って行く。
入り口に立ちさえすればあとは渦を待てばいいから。
そこに落ちる葉っぱひとつが輪郭を際立たせて見えるまで。蛇口から落ちる水の音が周りの音をかき消してクリアに聞こえるまで。
人からみたらばかげてると思うかもしれないくらいにそういうことをずっとやる。そういう撮影をここ数ヶ月で何度もやって、こうじゃなくちゃいけないなって思いました。あたしが写真を撮るっていうことはこういうことなんだと。想像以上にものすごくエネルギ−がいるし、そこまで自分の奥底まで深く深く潜っていくことはたまにおそろしいことでもあるけれど。フタをしておけばすんだモノとまで、しっかりと目を合わせないといけなくて。
どうして生き急ぐみたいにそういうことを続けるのかって聞かれたら、
それは、きっと、くっきりとした点をずっと打っていきたいからだと思う。
決して数多くなくても、ひとつずつ
くっきり、がしっと。
VARIOUSのアルバム、The World Is Goneがすばらしい!!!
何もしないでアルバムを通しでただただ聞ける日がきた。やっと。うれしい。
外には小さくてグレイの鳥。今年もおわり。
いつか今見える景色をきっと、急になつかしく思いだすという確信。
しん、と。